名古屋地方裁判所 昭和28年(行)9号 判決
原告 青木盛栄
被告 国
一、主 文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は「原告が昭和二十七年三月二十日小牧税務署に提出した昭和二十六年度分所得税修正確定申告は無効なることを確認する」との判決を求め、その請求の原因として、原告は肩書地で織布業を営んでいたところ、不況のため昭和二十六年末倒産して昭和二十七年三月三十一日をもつて廃業したものであるが、その間訴外兼松株式会社外五名に対して合計金四百四十二万六千円の債務を負担するに至つたので製品の現金売を開始したがこれも遂に失敗に終つた。即ち(1)昭和二十六年十月上旬頃訴外安本林太郎商店に化繊織物代金百二十六万六千七百五十一円相当を現金取引の約で売却したが当時内金三十万円の支払を受けたのみで残代金九十六万六千七百五十一円の支払を受けることができず昭和二十六年末に同商店主が行方不明になつたためこの債権は取立不能となつた、(2)又同年十一月上旬頃訴外丸巳産業株式会社に化繊服地、梳毛服地等代金百六十四万千五百二十円相当を現金取引の約で売却したが、当時内金二十万円の支払を受けたのみで残代金百四十四万千五百二十円の支払を拒絶せられ同会社は支払能力がないため昭和二十六年十二月末には既にこの債権は取立不能となつた。そこで原告は所轄小牧税務署長に昭和二十六年度の所得税確定申告を為すに当り右二口の取立不能の売掛代金債務を雑損失として金二百三十四万円計上して申告したところ、同税務署係員から取立不能の債権を雑損失に計上するにはその年度内に債務を免除した事実等を公文書によつて証明しなければ認めることができない旨告げられたため、昭和二十七年三月二十日付で同税務署長に、恰も金百二十二万余円の所得があつたような真実に非ざる記載をした修正確定申告書を提出した。しかしながら債権の取立不能は強制執行等によつて明かにすることができるのみでなく、社会的経済的の債権取立不能は強制力を用いなくとも税法上の通常の良識をもつてしても分明できるから、かような取立不能の債権を雑損失として申告することが許されるに拘らず、原告はこの事を知らないで、たゞ税務署係員の言を誤信して前記の如く雑損失を計上しないで為した修正確定申告の行為は要素に錯誤があつたので無効である。而して所得税修正確定申告は単なる事実の報告であつて私法上の行為であるから、その行為の要素に錯誤があつた場合は民法第九十五条により無効のものと謂うべく、仮りに右申告が納税者から国に対する観念通知又は認識表示なる公法上の行為であるとしても他の公法上の法律行為と異り、「私人の公法行為」の直接の効果として、国に租税債権を取得せしめるものであるが、国は納税者の真実の所得金額に対してのみ課税権を有し、租税債権を取得するに過ぎない、若しその所得金額に誤がある時は自らこれを訂正する義務があるものであるから、納税者が錯誤に陥らなければ為さなかつたという事情の下で、錯誤に基き修正確定申告をした場合はやはり民法第九十五条が準用され、その申告は無効である。しかも債権取立不能の事実はその年度内において明白に証明される場合に限らず修正確定申告により税額が確定した後である昭和二十八年に到り昭和二十六年末現在において債権の取立不能であつたことが客観的に証明できるようになつた場合にも、錯誤があつたことを理由として右修正確定申告の無効を主張することができるところ、原告は右訴外丸巳産業株式会社に対し昭和二十六年十二月末までに口頭をもつて前記債務を免除する旨の意思表示をなし、当時これを証明する資料は存在しなかつたが、昭和二十八年三月頃右訴外会社社長磯貝治一名義の債務免除を受けた旨の証明書を小牧税務署長に提出済であり、又訴外安本林太郎商店に対する債権は昭和二十六年十二月末現在既に取立不能の状態であつたが当時これを証明する資料は存在しなかつたけれども昭和二十八年六月現在ではこの債権が昭和二十六年末現在において取立不能であつたことを証明できるようになつたので、しかも原告に重大な過失がないから、この事実に基き右修正確定申告の無効を主張することができるものである。そして原告がこゝに修正確定申告の無効であることの確認を求めるのは納税者が申告書を作成して税務署長に提出したときは、その申告書が形式的に存在することと、これに基く修正確定申告が実体的に有効であることの効果として、国は租税債権を取得し、たとえその申告が実体的に無効であるとしても、国がその実体的無効につき疑を懐く限り、申告書の存在することによつて、その申告が有効であると推定される形式的効力を理由として、国はその申告の有効を主張することができるので、原告はこの申告が要素の錯誤により実体的に無効であることを主張し、その形式的効力を排除することによつて、被告をして原告の正しい所得金額を認定せしめた上原告の所得金額乃至税額を被告自ら訂正すべき義務あることの確定を目的とするものであるから、確認の利益を有するものである。よつて被告に対し右修正確定申告の無効なることの確認を求めるため本訴請求に及んだと陳述し、被告の主張事実を否認した。(立証省略)
被告指定代理人は、主文と同旨の判決を求め、答弁として原告主張事実中、原告の職業がその主張のとおりであること、原告主張の日に原告から小牧税務署長に昭和二十六年度確定申告書、修正確定申告書が提出されたことを認めるが、その余の主張事実は全部争う。凡そ公法上の行為においては、意思表示又は認識表示に錯誤があつてもそれが外部から認識する事ができない場合(私人の公法行為でも表意者の真意はその表示されたもので判断する外ない)はその表示が正当の権限によつて為された以上、たとえ真実と異つていても、その表示は一応効力を生じ、法令によつて修正乃至取消が許される場合は修正又は取消によつて始めて効力を失うこともあるが、公法上の行為には原則として民法第九十五条の適用がないから意思表示の要素に錯誤があつた場合でも当然それが無効であると謂うことができない、のみならずその効力が確定して動かし得ないものになつた後はもはやその誤謬を修正することも許されないのである。そこで今これを所得税修正確定申告について見るに、元来納税義務者の負担すべき租税債務は抽象的には法律の定める課税要件の充足したときに当然発生するものであるが、課税標準が外観上明白でないものがあるため、政府はこれを現実に納付徴収するためには税額を具体的に確定しなければならないところ、所得税については申告納税制度が採られ納税義務者は政府の賦課処分をまつことなく、自ら課税標準(所得金額)を計算し、法定の税率による税額を算出して申告し、自主的に税額を納付するのである。この申告は政府の賦課処分に代るものと考えることができるので「自己賦課」といわれる所以である。この申告によつて租税債務の具体的内容たる税額が確定される効力は申告者の意思に従つて生ずるものでなく、専ら法律の規定に基き発生するものであるから右申告は所謂法律行為的公法行為でなく、準法律行為的公法行為であると謂わねばならない。而して所得税確定申告において、もし所得金額の記載を誤つた場合は所得法第二十七条の規定により、所得金額が過少である場合は政府による更正決定がなされるまでは自由に修正確定申告を提出することができ、又それが過大である場合は申告書の提出期限後一ケ月間に限り所得金額乃至所得税額の更正を請求することができるのである。従つてたとえ誤つた申告であつても当然無効でないのみもできなでなく、提出期限後は自由に修正することは許されず、その後一ケ月を徒過すればもはや更正を請求することい。以上要するに所得税修正確定申告において申告者が誤つて過大な申告をした場合でも所得税法の規定による修正、更正の方法によらないで、申告行為の要素に錯誤があつたことを理由としてその無効を主張することは許されないものである。又原告主張の本件修正確定申告については原告の主張するような錯誤は毫も存在しない。即ち原告は、昭和二十六年度修正申告において同年末現在で取立不能の債権額金二百三十四万円を雑損失として計上して申告できたのに錯誤に基き計上しなかつた、と主張するのであるが、原告も自認するように、債権取立について原告独り取立不能であると做してもそれが客観的に証明できるものでなければ申告を受ける税務署長に認めて貰えないのであるから、原告は確定申告においてこれを雑損失として計上したところ税務署係員の助言もあつて修正確定申告にはこれを計上することを取止めその自由意思に従つて右申告書を提出したものであつて、その表示と真意とには何等不一致がない。仮りに表示と真意とが符合していなかつたとしても原告はそのことを知りながら敢えてこれを提出したことについて重大な過失があつたから今更その無効を主張することはできない。もともと実務上の取扱として所得税の申告に当りその年度中の取立不能の債権を損失として計上するには何等かの客観的に立証できる資料を提出することが要求されている、それは所得税法が所得の把握につき債権発生主義を採用しているのでその年度中に債務を免除したとか、取立が全く不能であるという事実を客観的な証拠によつて証明できるときでなければ、単なる債権の取立不能の申告だけでは損失として計上することが容認されないのである。ところが原告も亦その主張のように昭和二十六年度中の所得税確定申告において取立不能の債権金二百三十四万円を損失として計上していたので、その真否を調査した結果、原告主張の訴外丸巳産業株式会社に対する債権は同会社から交付を受けた手形二通の満期は何れも昭和二十六年中に到来していなかつたので同年度内においてはこの手形債権又は売掛代金債権は未だ取立不能と認めることができなかつたし、又訴外安本林太郎商店に対する債権も同店から交付を受けた小切手又は売掛代金債権も未だ取立不能と認めることができなかつたため、原告においてこれを取立不能の債権として雑損失に計上するためにはこれを認容すべき資料の提供方を求めたところその資料を提出することができず、係員の助言によつて、原告は強いてこれを損失として計上することをやめ、不本意であつただろうが本件修正確定申告書を提出したものであつて、その間原告の右修正確定申告につきその表示と真意とに何等錯誤に基く不一致は存在しないものである、と述べた。(立証省略)
三、理 由
原告が小牧税務署長に対して昭和二十六年度の所得税確定申告書を提出し、更にこれに対し昭和二十七年三月二十日付をもつて修正確定申告書を提出したことは当事者間に争がない。
そこで原告は右修正確定申告は要素に錯誤があつたから無効である旨主張するので、先づ所得税修正確定申告につき要素の錯誤があつた場合に民法第九十五条の適用乃至準用があるかどうかを考えて見よう。もともと修正確定申告は確定申告書を提出した納税者が、これを提出した後法定期間内において申告書に記載した所得金額が適正に計算した所得金額に比して過少である場合にこれを修正することを目的とするものであるが、その申告が税務署長に提出されると同時にこの修正によつて増加した所得税額はそのまゝ確定し、納税者はその申告書の提出に因り直にこれに記載した所得税額を納税すべき義務を負担するに至るのである(所得税法第三十二条第四項参照。)この場合私人たる納税者が提出する修正確定申告は納税者から政府(税務署長)に対する不対立関係において為されるものであるから公法的性質を有し、その申告行為は所謂私人のなす公法的行為であると謂わねばならない(従つてこの点に関し原告が右申告行為は私法上の行為であるから民法の規定を適用すべきである旨主張するが当らない見解である)。而して、公権力の作用による行政処分はその形式的確実性を重んじ行為の定型化を特色とし所謂自治の原則は認められないことよりみて本来対当の当事者間の法律的取引を対象とし、その利害の調整を目的とする民法の規定を適用すべきではなかろう。しかしながら私人の公法行為である修正確定申告は公権力の発動たる行政処分におけるごとき特色は存せず私人が自己の意思の発動に基いてなす行為である、そして右申告について私人の意思の発動を認めているのは所得税法が申告納税制度を採り納税者に申告義務を負わしめると同時にその自発的かつ適正な申告を要請している建前からすれば私人の意思を尊重しその意思に基いて申告することの必要を認めた結果であるから、もしその意思が表示と一致しないときは、これに関して民法の分野における意思主義の原理がこの場合にも妥当し民法の錯誤の規定が類推適用であるものと解するを相当とする。
よつて進んで原告が右修正確定申告書を提出するに当つてその申告行為の要素に錯誤があつたかどうかについて判断するに、所得税の課税標準を算出するに当つて債権発生主義を堅持する所得税法の下においては、課税される所得金額を決定するにつき計上しうる損失額は当該年度内に損失として確定したものに限られると解すべきで申告者が貸倒れ債権を損失に計上するためにはその債権の取立不能若くは放棄した事実が同年度内において既に発生したものであることを要するところ、原告は訴外安本林太郎商店及び同丸巳産業株式会社に対し昭和二十六年中に売却した商品の売掛金債権が同年末既に取立不能であつたから、右修正確定申告当時この無価値な債権を損失として計上でき得たのに拘らず、それを計上するためには無価値の事実を証明する資料の提出を要するものと誤信し、錯誤に基き損失に計上しなかつたので、右申告は要素に錯誤があると主張し、右債権が同年末現在において既に無価値なものであつたことを前提として錯誤を強調するものでありしかもその事実を後日に到り証明できるようになつた場合でもその錯誤による無効を主張できるというのであるが、原告の提出援用にかゝる全立証によるも右訴外人等に対する債権が同年末現在においては勿論、修正確定申告当時においても無価値(取立不能若くは放棄)であつた事実を認めるに足る証拠がない。却つて成立に争のない乙第一乃至三号証の記載に、証人平田真三の証言及び原告本人訊問の結果の一部(措信しない部分を除く)を綜合すれば、所得税法が納税者において自主的に、かつ適正な修正確定申告をなすべきことを期待しているので、徴税の実務においては確定申告書が提出されたときは遂一これにつき調査を遂げその申告書に記載された所得金額が過少であるとき、又はこれに計上された損失額が過大である場合、政府(税務署長)はそれを更正するに先立ち、便宜上申告者にその記載事項を修正すべき旨を慫慂し申告者をして修正確定申告をなさしめるよう期待に副うべく取扱つているところ、原告から昭和二十七年二月二十九日小牧税務署長に対し昭和二十六年度の所得税確定申告書が提出されたので、名古屋国税局係員平田真三、吉田信義が同年三月十九、二十日の両日に亘り原告方に臨み右申告書の内容につき真否を調査した結果、申告書では雑損失に金二百三十四万円を計上し所得税額が皆無となつていたのに拘らず、生活費関係の帳簿はなく、又仕入帳その他受払帳簿の記載も正確でないのみでなく、原告が昭和二十六年末に販売した商品の売掛金が取立不能となつたから雑損失と済して金二百三十四万円の計上を認められたいと希望しながら、その債権については取引先である訴外安本商店から受取つた小切手(昭和二十六年十二月二十七日付)や、訴外丸巳産業株式会社から受取つた手形二通(金額六十四万七千円の分は満期昭和二十七年二月十日、金額七十万円の分は満期同月十五日)を所持しており、その小切手及び手形は既に不渡になつてはいたが当時その振出人、裏書人等に支持を請求しておるとのことで取立不能の債権として取採うことができなかつたし、債権を放棄した事実もなかつたので、損失として計上するためにはその事を証明できる資料を提出すべきことを求めたのに対し、原告は単に計算表(乙第三号証)を提出したのみで他にこれを証明できる資料を提出しなかつたから、昭和二十六年度の課税標準の算出には右訴外丸巳産業株式会社に対する金百三十四万七千円、同安本商店に対する約金百万円の売掛金債権は損失に計上すべきものでないと認め、原告に確定申告書中の雑損失を削除した修正確定申告書を提出するよう助言した。そこで原告はこれを損失に計上するためにはその債権が昭和二十六年末現在において取立不能若くは債権放棄の事実を証明できる資料を提出すべきものであることを諒承してこれを損失に計上することを断念し、改めて右雑損失金二百三十四万円を全部削除した修正確定申告書を提出した事実を認めることができ、右認定に反する原告本人の供述の一部は措信せずその他右認定を左右するに足る証拠がない。
従つて、原告の錯誤の主張は既に前提たる事実を欠くのでこれを採用することができないことが明である。
仮りに百歩を譲り右申告当時客観的には右債権が無価値(取立不能若くは放棄)の状態となつていたとしても、それを無価値なものとして申告し、そのまゝ容認されるためにはその旨の証明資料を要することは債権発生主義を採る徴税実務の上での必然の要請であり、調査に当る係員の助言もまた適宜の措置であつたと考えられる事情の下で、原告がかゝる場合には証明資料の提出を要するものと信じ、しかも原告も自認するように右申告当時その資料を提出できなかつたため、自らこれを損失に計上しなかつたものであるから、その間原告の右申告行為につき何等要素に錯誤があつたものと認めることができない。
もしそれ原告の主張にして、右債権が修正確定申告の時より後に至つて無価値のものとなり、そのことを証明しうる以上、遡つて右申告はやはり要素の錯誤あるものとして無効をきたすとの主張を包含するとすればその理由なきことまたいうまでもなかろう。けだし債権発生主義を採る税法のたてまえにかんがみるときは錯誤の存否ということは申告の時を標準として決すべきであり、申告後に発生した右のような事情はその効力を左右しえないと解せられるからである。そしてかゝる場合における救済は別途に考えらるべきであろう。
されば右修正確定申告が要素に錯誤があつて無効である旨の原告の主張はすべて理由がないものと断ぜざるを得ない。
よつて原告の本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 白木伸 村本晃 宇佐美初男)